うまこの言う通り、火曜サスペンス的に実際のドキドキハラハラを伝えられていない。それは単純に文才がないから、というのももちろんあるけど、時間と共に辛い記憶を脳が自動消去しているからでは?とも思う。
前を向いて生きていくためには、嫌なことを忘れて、ちょっとでも楽しいことを考えていく必要があるのよ!
さてさて、モラハラの次は、死について。。。毎度暗いな~
もう会えない友へ想うこと。。。
先日、同級生が亡くなった、という知らせを受けた。
彼女に最後に会ったのは、コロナ禍になるもっと前の冬だったから、もう5、6年前。その時はとても元気で、家族で楽しそうに話しをしていたのをよく覚えてる。その彼女が病に侵され、自分でやっていた会社も人に任せたと聞いたのは、コロナ禍の真っただ中で、気にはなりながらも、連絡をしなかった。
連絡をしなかったのは、コロナ禍だったから、というだけではなく、病気だと知って連絡をするのが、何となく嫌だった。
もし自分だったら、と考えた時。病気になってから連絡してこられても、それは、興味本位に病気の自分を見てみたい、と思っているだけではないか、と感じるような気がした。「大丈夫?」って、病気なんだから大丈夫なわけもなく、それでも、かける言葉はそれしかない。
そんな時に会うのではなく、純粋に、元気な彼女に「久しぶり!元気?」と会いたかった。
しばらくして、ご主人とゴルフに行ったり、食事にいったりする写真を彼女がSNSで発信するようになった。そこには、病気だと感じさせる文章は一切なく、ただ日々を楽しんでいる様子だけが記録されていて、もしかして、すっかり元気になったのかも、と勝手に期待してしまった。
そんな彼女の投稿が上がらなくなって約半年。彼女が亡くなった、と連絡をもらう。
悲しい、というより、残念で、たまらかった。他の誰よりも元気で、明るかった彼女が、こんなに早く逝ってしまうなんて。病気でもなんでも、うだうだ言ってないで、連絡して会いに行けばよかった。病気の彼女に連絡するのは迷惑だろう、なんて、ただの会いに行かないための言い訳に過ぎなかった。
でも、何を言ってももう遅い。彼女と言葉を交わすことは、もうできない。
元気なうちに会いに行こう!
ここ何年かで、年齢の近い身近な人が数人急逝した。そのたびに、何年か何十年ぶりかの友人と連絡をとり、葬儀で会い、懐かしむ、ことになる。悲しいはずの場所で、不謹慎だと思いつつ、久しぶりの再会を喜び、そこはさながら即席同窓会会場だった。
「この光景を見て、一番参加したがっているだろうね」と亡くなった友人の遺影を見ながら話した時に、そうか自分のお葬式にこんなに人が来てくれても、死んだ本人はお礼も言えないし、一緒に楽しむこともできないんだ、としみじみ思った。私が死んだことで人が集まり、みんなが楽しそうにしてくれたら、きっと私は嬉しい。でも、できたら、一緒に楽しみたいし話したいな~
病気になってからでは、きっと動くのが辛いし、病気の自分を人に見せて歩きたくもないだろうし。だったら、いま、元気なうちにもっとやりたいことやって、会いたい人に会って、一緒に話して笑って、楽しまないとだめだよね!
生前葬を調べてみた。。。
お葬式って、どんなに忙しくても仕事があっても、何とか都合つけて駆けつける用事ナンバーワンかも。死んでもう会えなくなるから、という理由で集まるのならば、死んでからでは既にもう遅いよね。会うといっても、本人死んでるから気づいてないし。
だったら、ほんとに「これで生きてる間に会える最後だよ」の会を開けたら、いいな~。生前にできたら、自分でちゃんとお礼も言えるし。
と、調べてみたら、結構でてくる。私が一番いいな、と思ったのは、余命いくばくもない、とわかってから、それを公表した上で生前葬をやる、というもの。芸能人のように、お祭りとして生誕祭、みたいなことに人が集まってくれればいいけど、一般人はそうはいかないしね。何もないのに、生前葬やるからきてね~と言っても、皆仕事を優先するでしょう。
最初に書いた、元気なうちに会う、とはちょっと違っちゃうけど、元気なうちに会いに行ける人数も限られている、と考えて、さてもう死にますよ、死んでからの葬儀はしないので、今いらしてください、と言えば、多少の都合はつけて皆きてくれることを期待したい。
生前葬をやる人は10万人に1人くらいの割合、やるからには周りから変わり者扱いされるのは覚悟して、と書いてあった。いやいや、どうせ死ぬんだし、変わり者と言われても全然いいですよ。ごくごく普通の人生でしたが、自分の人生で出会ってくれて、その時々でお世話になった方々に、きちんと「ありがとう」を言えて終えられたら、本当に幸せだと思う。
いつか生前葬をやる時に、一人でも多くの人が都合つけてきてくるように、明日からの人生も頑張ろ~^^